2015年12月31日木曜日

みなさまへ

みなさま

おはようございます。


おかげさまで一年の締めくくりの日を迎えることが出来ました。

これも縁で結ばれたみなさまの支えがあったからです。

ありがとうございました。


よいお年をお迎えください。




縁という名の歯車を回して

2015年12月26日土曜日

サンタクロースはいます。

 みなさま

おはようございます。


昨日でクリスマスは終わりましたがサンタクロースについての書きますので、
釣りキチ先生の釣りブログのコメント欄より転記させていただきました。

Yes, Virginia, there is a Santa Claus. He exists as certainly as love and generosity and devotion exist.
(いいかい、ヴァージニア、サンタクロースはいます。 愛とか寛大さとか献身が存在するのと同じように、確かにサンタクロースは居るんですよ)

↑ご存知かも知れませんが、8歳の女の子の「サンタさんっているのですか?」と言う手紙に、
ニューヨークの新聞社が社説で答えた文の一節です。


みなさま、来年こそ素敵なプレゼントを持ってサンタクロースが現れるように、一年の日々を過ごしてみませんか。


酔いお年を!



酔っぱらったまま年重ね

2015年12月25日金曜日

サンタクロース

みなさま

おはようございます。


クリスマスをいかがお過ごしですか、クリスマスと言えばサンタクロース。

この時期ばかりは、神や佛でなくサンタクロースです。


周りをよく観察すると普段は神や佛であった人々がサンタへと変身して

プレゼントを届けてくれます。形あるものだけではなく、笑顔や言葉などなどです。

ただし、それをそのように感じない人もいるのが普通なのかもしれません。


みなさまにもサンタクロースが素敵なプレゼントを届けてくれたのでしょうか。

そういえば、10数年前、会社のおねーちゃんに

「サンタクロース来た?」と毎年のようにあたりかまわず話しかけていたことを

思い出します。相手の娘は「来ない」と答えるのが普通だったのです。

その光景を毎年のように見ていた後輩は

「いいとしこいてバカじゃない」と毎年のように言っていたのです。


バカだからサンタクロースが現れるのかもしてませんね。




サンタサンタサンタどこにいるのやら

2015年12月22日火曜日

背負う

みなさま

おはようございます。


背負ういう漢字が出てきました。みなさまはどのような読み方をしますか。

しょ・う もしくは せお・う と読むことでしょう。

どちらも同じような意味なのですが。読み方を変えると少し感じ方がかわります。

日本語の難しさでもあり、日本の豊かさでもある日本語の一例なのかしれません。


そこでこの言葉を思い出しました。

人生は重荷を背負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず、不自由を常とおもへば不足なし

徳川家康の家訓だそうです。


年の瀬に背負うを考える田舎者です。

みなさまは、なにを背負っていますか。





我が手 見つめて 幸せ観える

2015年12月20日日曜日

普通

みなさま

おはようございます。


先日のカミさんとの会話です。

「ハヤシライス、どうだった?」

普通。

「なに?その普通って・・・」

普通が一番なんだけどな。


翌日

「その里芋コロッケどう?」

普通

「なに?その普通って・・・」

普通が・・・。


思い出しました結婚当初。

やはり、食卓にて会話です。

「どう?」

まあまあかな?

別の日

「どう?」

35点


その後嵐が吹き荒れた記憶が蘇った最近の普通の出来事でした。


特別なことがない普通な日々こそが、ありあわせの幸せと思うのですが。

みなさまは、いかがお思いになりますか。



ありきたり どこにでもある しあわせよ

2015年12月19日土曜日

視野

みなさま

おはようございます。


書こうとしたことを忘れてしまいました。

なぜ?

枕元にあった。器の中の液体をいただいたからです。


視野 眼を閉じて観えるくることもある。




人生欲いっぱい

2015年12月17日木曜日

EYE 愛

みなさま

こんばんは!


先日ですね。新直売所にて行われた、東松山市農業祭。

そこで書道パホーマンスをしていただいた

松山女子高等学校書道部。お礼とお願いにうかがいました。


校長室の前で女子生徒にお礼とお願いを述べさせていただいたのですが。30名からの

お姉ちゃんのEYEに愛を感じてしまったのです。


30名の60個の眼。観られることに快感を覚えている田舎者ですが、さすがに視線を

合わせることが出来なく、あがってしまいました。


光り輝く生きた眼。そこには生きる愛を感じてしまったのです。


愛とは、愛することだけではなく、愛されることが必要です。

書も、同じことが言えるのではないでしょうか。

書き手の心が書を通して観る側に感じ取られたしまうのです。


EYE 愛によって。


みなさまは、あい、おもちですか。




めは 明いて閉じての 繰り返し

2015年12月15日火曜日

手紙談義

みなさま

おはようございます。


先日、野坂昭如さんが亡くなられましたが、家の光と言うJAグループが発刊している雑誌の

12月号に連載第14回。手紙談義 農を棄てたこの国には明日はない。があります。

今日はそこからのブログアップです。

野坂昭如→山下惣一


書き出しは

山下惣一様へ

人間などインチキなものである。
だが、風まかせ、人まかせ過ぎた。

戦争はさまざまものを奪う。負けた国は当然、失うものも大きい。ではじまるのである。

自らの戦争体験と戦争に対する思いを書きつずっていくのである。


その一節に食のことに触れている。

昭和二十年、戦争は終わったが、人手不足、肥料不足、加えてこの年は天候不順で全国的な

不作となり、日本は飢えに苦しんだ。

戦勝国アメリカは、余剰農産物を援助、ぼくもこれによって命を救われた。

農民の努力によって、どうにかこれまでの八割程度の自給が可能となった頃、アメリカは日本に

向けてパン食を推奨。

その原料は、アメリカからやってくる。徐々に米の消費は減り、自給率低下、確実に日本の農は

潰されていった。これこそアメリカの占領政策。お上を筆頭に、日本人はあっさり受け入れていく。

敗戦で飢えの恐ろしさを身に沁みこませた日本人。・・・・・

戦後七十年を径て、アメリカの占領政策が、ボディブロウの如く日本にきいている。

・・・・・・。


種苗会社の言葉に「種を制する者は世界を制する。」があります。アメリカの種苗会社には

世界の9割以上の植物の種子が保存されているそうです。


談義の末文に

戦後七十年、安保法成立。かつては皇軍、戦後はアメリカの傭兵、それでしか日本は、

生き残れないというのか。


みなさまは、日本についてとくに食についてどのようなお考えをおもちでしょうか。




有り余れば腐る食材






 

2015年12月14日月曜日

南米に生きる佛の教え

みなさま

こんにちは!

今回は南米ウルグアイのムヒカ大統領のリオ会議のスピーチを写させていただきます。


 本日、この会議に集まったわたしたちは、持続可能な発展と、人々を貧困から救うことについて話合ってきました。しかし、その答えは、現在の裕福な国々の発展と消費のモデルをまねることなのでしょうか?

 一つ質問させてください。ドイツの一世帯当たりと同じ台数の車を、インドの人が持ったなら、地球はどうなるでしょうか?息をするための酸素はどれくらい残るでしょうか?富裕な西洋社会と同じ消費を、世界の七十億、八十億の人ができるほどの資源が、この地球にあるでしょうか?

 このような過酷な経済競争で成り立つ社会で、団結とか共存共栄とかについて語ることができるのでしょうか?

  わたしたちは発展するためではなく、幸せになるために生まれてきました。人生は有限であり、どんな品物にも代えられません。にもかかわらず、人々はよりたくさん消費するために働くことをやめません。消費社会はエンジンです。消費が滞れば経済がまひし、経済がまひすれば、不況というお化けが姿を現します。

 この社会では、千時間以上光る電球はあってはなりません。十万時間もつ電球を作れるのに。市場というもののために。働き続けて、〝使い捨ての社会〟を長らえさせるために。わたしたちは悪循環の中にいるのです。

 昔の聡明な人はこんなことを言っています。「貧しい人とは、持たざる人 ではなく、いくらあっても満足しない人だ」と。

 わたしの言うことが簡単には受け入れがたいのは承知しています。しかし、みなさんには、問題の原因が水危機や環境破壊にあるのではないことをわかってほしいのです。原因はわたしたちの社会のあり方であり、見直すべきはわたしたちの生き方だということを。

 わたしの国は小さいですが、天然資源に恵まれています。国民は三百万人ほどしかいませんが、世界でも最上級の千三百万頭のウシがおり、八百万から一千万頭のヒツジがいます。わたしたちの国は食べ物の輸出国で、国土の九割が肥沃な平原です。

 労働時間の権利のために闘って、六時間労働を獲得した人たちがいます。しかし、彼らも結局は別の仕事を掛け持ちして、前よりも長い時間働いています。バイクや車、その他の月賦を支払うために。
ようやく支払い終わった頃には、わたしのようなリウマチ持ちの老人になって、人生を終えるのです。人の一生とはこんなものですか?

 わたしが言っていることは、ごく基本的なことです。発展とは幸福を阻むものでなく、人類の幸福のためにあるべきものです。愛情、人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして最低限の物を持つこと。こうしたことのためにこそ、発展はあるべきなのです。

 わたしたちにとって、もっともたいせつなものは幸福です。地球環境のために闘うのであれば、人類の幸福こそが、そのカギだということを忘れてはなりません。

家の光12月号より



追記 

これって、釈尊、佛の教えすよね。そして人間の生き方の相対化でもあるのではないでしょうか。



幸せは我が内に

2015年12月8日火曜日

知らない間に

みなさま

こんにちは!


最近、切に感じるようになりました。自分では気が付かない間に

様々な種を播いているということです。


何気なしに口から出た言葉が相手を傷つけいて恨まれることになったり。

また、その反対で他人から感謝されたりする場合があります。


大きな心で観てみるとたわいもないことなのですがね。

これもまた、人間として生きている証なのかもしれません。


ふー!



人生 観えない縁で 結ばれて

2015年12月7日月曜日

眼を病んで

みなさま

おはようございます。


眼を病んで頭から離れなくなった一句があります。

それは

君看双眼色(きみみよそうがんのいろ)

不語似無憂(かたらざればうれいなきににたり)



芥川龍之介、良寛さんが愛した句で白隠禅師の句ともいわれています。

この三人気持ちは想像することしか出来ませんが、今の自分自身は

自分で納得がいくまで想い考えることが出来るのです。


どのような答えが出るのやら楽しみがまた一つ増えました。




眼を病んで 見えないものが 観えてくる



 

2015年12月6日日曜日

新しい靴下は温かい

みなさま

こんにちは!


先程、買い物から帰ってきました。カミさんに作業服としてライトダウンジャケットと

ベストを購入したのですが、そのついでに三足980円の靴下を六足買い求めました。


帰宅するなり履き替えてみると、新しい靴下は温かいです。たったこれだけのことですが

小さな幸せを感じてしまうとは、なんとも安上がりなものですね。


みなさまもありますよね。そんなこと。






幸せは身近にあって気が付かない


2015年12月4日金曜日

目が明かない

みなさま

こんにちは!


日頃の行いでしょうか。目が明かなくなりました。

朝、洗面所で自分の顔を観ると、両目が一(いち)になってるではありませんか。

数日前から目全体がゴロゴロし上目蓋が大きく腫れはじめ眼球は充血しているのです。


今朝朝一で眼科へ。診察が終わり担当医が一言。

「アレルギーです。」


何に反応したのかは分かりませんが、繊細な心と身体の持ち主であること事実のようです。

だれが、「はい!わたくし田舎者がです。」


おわり





眼で通じ合う そんな貴女に 逢いたくて

わかんない わかんない わかんない

みなさま

おはようございます。


昨日、息子が通う中学校で三者面談が行われました。ごくごく一般家庭と同じように

カミさんがその席について話し合いをしてきたのですが、その内容が個性豊かな息子

だったのでブログアップになった次第です。


まずはジェスチャー。先生から見えないようにカミさんに指先でしゃべるなとアピールした

そうです。当然のごとく先生が何を質問しているのかは頭の片隅にもありません。

そこで会話の一部です。


先生
「将来は何になりたいの」

息子
「わかんない」

先生
「中学を卒業したらどうしたいの」

息子
「わかんない」

先生
「高校にはいかないの」

息子
「わかんない」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カミさんが帰宅後に報告してくれました。

「話を聞いていないのでわかるわけないでしょ。」


ちゃんちゃん!


これをカミさんが読み一言。

「ネタにするならもう少し優しく接してよ。」


優しさがわかんないんかな?




親が親なら子も子です





2015年12月3日木曜日

相対化と絶対性

みなさま

おはようございます。


今日はものの観方考え方について書いてみたいと思います。

嶋中労の「忘憂」日誌にコメントを書いたことがきっかけで「相対化と絶対性」という

言葉を知ったのである。普段から使わない言葉なので、すぐさま検索。 

「うん。」と納得するようなどれもこれも当てはまらないのでった。


今朝のことである。ものの観方について考えていると、球のように縦横斜めあらゆる角度から

ものを観るのと、ある一面だけしか見ないのではまるきり別なことである。

あ!これって、相対化と絶対性であると気が付いたのです。


分かりやすく例をあげると、日本人の一般的な人の信仰は子に恵まれるとお宮参りをし

その子が大きくなり結婚式を挙げると教会で行い。息を引き取ってしまうとお坊さんに

お経をあげてもらいお供らいを行う。早い話が何でもござれな信仰心で他人を邪魔に

したりしてはいない。

ところが他国へ行くと人の信仰心は一つである。一つの神、仏だけなのである。


どちらが良いとか悪いとかのという問題ではない。どちらも長所と短所を持ち合わせて

いるからである。要はバランスなのだ。


このバランスとは自分を磨くことではないだろうか、向上心お持ちながら現状を納得する。

また、決して現状を他人のせいにはしたりすることがないのである。


言葉にする。文字にするって難し。ちゃんちゃん!



追記、今、昼ご飯を食べていて気が付きました。

これって、執着しないことではないだろうかと。





やじろべい 右も左も あるものか
 

2015年12月1日火曜日

いかるかの

みなさま

おはようございます。


先日書いた会津八一の歌と器ですがもう一つあります。

それは

いかるかの さとのをとめは よもすから きぬはたおれり あきちかみかも 八一

と器に書かれています。


そこでまたもや検索です。

斑鳩の里の娘たちは夜が更けるまで機を織っている。秋が近づいたからであろうか。

とありました。


もう冬を迎えた今日この頃です。


みなさまの心の紅葉は葉が舞落ちているかな。



舞落ちる 母なる大地 待ち受ける
 

人の数だけ

みなさま

こんばんは!


今日、車を運転していて気が付きました。

それは人の数だけ神さま仏さまがいるということです。


たいがいの人はそんなことはあるものかとお思いになることでしょうが

観る目を持つと観えてくるのです。聴く耳を持つと聴こえるのです。そして

感じる心を持つと感じられるのです。全てが神さま仏さまだということです。


今日も今日とで酔っている田舎者でした。






今日も 酔って 日が暮れた