母をおもふ 高村光太郎
夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。
「阿父さんと阿母さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。
鑿で怪我をしたおれのうしろから
切火をうつて学校へ出してくれたあの朝。
酔ひしれて帰つて来たアトリヱに
金釘流のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。
立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。
やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。
さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。
母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。
時が経ち だんだんだんだん 好きになる
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