2022年2月19日土曜日

何不自由なく育つ

 みなさま

おはようございます。

何不自由なく育つということは、ある意味で不自由に育ってしまうのではないかと考えるようになりました。なんというか生命力が欠けている人間、生き抜く力を持たない人間になってしまうような気がするのです。

親になるということは人生においての最高の先生なのかもしれません。



母想う 春ほろ苦き 人生

2 件のコメント:

嶋中労のプロファイル さんのコメント...

田舎者様
実家はかつては裕福でした。
従業員が30人くらいいて、製材所を経営していたんです。

しかしほどなく倒産。莫大な借財を抱え込み、母は魚屋の事務員として働き、
長男は新聞配達で家計を支えました。ボクも微力ながら新聞配達や八百屋の売り子をして
家計を支えました。

貧乏は辛いです。食べるものがないし、毎週のように借金取りが押しかけてきます。
服はつぎはぎだらけで、家はかつてのモーター小屋でした。
ボクたち6人は吹けば飛ぶようなちっぽけな小屋に住んでいたのです。

今は何不自由ない生活をしていますが、それはみんな貧乏と戦い、子供たちを学校に入れてくれた父母のおかげです。母は70歳を過ぎても魚屋で働いていました。

そんな母の苦労を想うと、今でも泣けてきます。
貧乏のみじめさが骨身にしみていますが、貧乏を経験して本当によかった、と思っています。

洗濯機があって冷凍冷蔵庫があって電子レンジまである生活。
母は洗濯板に亀の子石鹸という生活。手は霜焼けとあかぎれで、いつも痛々しかったです。

そんな母の後姿を思い出すと、やはり涙が出ます。
戦争世代の父と母は、苦労の連続でした。

ボクたちは恵まれすぎです。
貧乏を知らない豊かさは、ニセモノの豊かさです。

ボクはあの貧乏生活が、今は懐かしいです。

田舎者 さんのコメント...

嶋中労さま

おはようございます。
我が家も曾祖父の時代までは小作人や使用人がいて村をを代表するような家だったそうです。
田植えをするのも土手の上で曾祖父の一声があってはじめて始まるほどの権力的なものを
もっていたそうです。そして村長が毎日お昼ご飯を食べに来ていて家の者は食べない豆腐の
味噌汁を作っていたそうです。

そんな家だったそうですが、親戚が株が儲かるからというので手を出して暴落し家から土地から
埼銀に抵当権を取られていたのですが、祖父の弟である二郎さんの戦死と祖父をはじめとする
家族の働きで借金を返済し今があります。

そんな家だったのですが曾祖父は週に数回松山の町へ出かけ酒を呑んでいたそうです。行は歩きで
帰りは人力車で帰ってきていたとのことと父が話してくれたことがあります。

そんな家に嫁いできたのが母は幼いながらも苦労の連続の日々だった記憶があります。そして今は
恵まれています。両親をはじめご先祖さまの働きによって今があるからなのです。

人生はどこかで苦労をしなければならないことも教えられましたから。

ありがとうございました。